2019年12月15日

「わたしを笑わせることができるかしら?」

 今日はゆっくり休もう

「堪え難きを耐えて、忍び難きを忍び・・・」

大東亜戦争は終わったときは、母は小学生になっていたの
である。戦争で、母は父と父の弟をなくし、母を不自由させ
ないようにと残された兄弟が、戦後復興の別府でその父セイジ
のツテもあり、土建屋で奮闘していたそうなのである。

当時、ものがない時代にかかわらず学校で靴をはいていける
生徒は数えるほどのとき、靴をはいて母は元気にやんちゃに
育っていたらしい。ものがない時代に何不自由することなく
生きれたのはおじさんたちの頑張りと、セイジのかわりに
みかん農家になっていた、タカおばばの頑張りもあったの
だろう。

近所に住む齢「七」十になる、おさくぼけが母の帰りを毎日
まっていたそうだが、母はあいかわらずの意地悪な気性。

「ぼけにみせる顔はねー」といっておさくぼけを泣かしていた
そうなのである。

おさくぼけは、「じゅんちゃんの声と顔みらんと一日が終わらん」
と泣いているにもかかわらず容赦なくいじめたらしい。
(うーん・・・おさくぼけが転生していることはないよな・・・)

おさくさんがほんとの名前で、まぁまぁ品のいい女性だったらしい
が、よる年にはかてず今の言葉で言えば認知症だったらしい。

話はとび、昨日の夕方テレビで美輪明宏さんの特集をしていたので
しばしみていた。福岡の飯塚にある嘉穂劇場の舞台にたったとき
美輪さんかなりな衝撃を受けたらしい。

歌謡曲「ヨイトマケの唄」に集約されていくと

炭鉱労働者たちの明るい笑顔から、

「世の中に必要とされない人間はいない」という確固たる信念が
植えつけられ相当な自信になったらしいとテレビでいっていた。

当時としては奇抜ないで立ち、強烈な個性から美輪さん世間より
かなりなバッシングを受けていたらしいがどこ吹く風でガン無視
していたらしい。

今日は祖父の父セイジも登場させたのだが、母にセイジのこと
をきくのだが、どうも歯切れがわるいものいいなのである。

「セイジってミカン農家する前なにしてたの?」

「うーん兄弟がいて、別府で事業していたらしいよ!?」

「なんの事業?」

「・・・・」

かなり興味深い人物なのだが、一番セイジの血が色濃くでている
のはめいっこのような気がするのである。

ということで自分がご当地で仕事をするようになって知り合った
セイジが2人ほどいるのだが、なかなか「やおいかん」人物なの
である。「やおいかん」とはしっかりもののたとえた大分弁なの
である。

最近特に・・・「セイジのひ孫なのにこの体たらく(~_~メ)」が
最近の口ぐせな母なのである。

今日はゆっくり休もう

いよいよ来週は有馬記念かと思うと一年はやいな〜
posted by クール at 06:23| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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